青いバラの誕生の秘密☆開発成功!夢が実現されるまでの話

青いバラの誕生の秘密☆開発成功!夢が実現されるまでの話

青いバラ「Blue Rose」、英語では「不可能」の象徴として使われる言葉でした。なぜなら、世界中で誰がチャレンジしても、青い色のバラが作れなかったからです。そんな不可能に挑戦したのが日本の代表的な洋酒メーカーサントリーとオーストラリアのフロリジン社の共同開発チームです。

そして、東京六本木ヒルズで青いバラの開発成功の広報発表が行われたのが2004年6月、プロジュエクトが始まった1990年から14年の時が流れていました。さらに、日本で青いバラの販売が開始されたのが2009年。研究が開始されてから実に20年後のことでありました。

その間、サントリーの研究陣の前に立ちはだかった大きな壁とは?挫折を克服し研究を成功に導くまでにはどんな苦労があったのでしょうか。そこで今回は青いバラの夢が実現されるまでの成功の軌跡をさまざまなエピソードを交えながらお伝えします。



 

青いバラの誕生の秘密☆
開発成功!夢が実現されるまでの話

 

第一章 1990年〜 青いバラプロジェクトが始まったきっかけ


長い間、青いバラは世界中のバラ愛好家の夢でしたが、そもそもバラには青の色素がないことから品種改良による青いバラの実現は不可能とされていました。

ですが1980年代から飛躍的な発展をとげたバイオテクノロジーを使えば青いバラは可能ではないかという期待が高まったのです。そして、その時すでにサントリーは、ぶどうや大麦の品種改良でいち早くバイオテクノロジーの研究に取り組んでいました。

サントリーが青いバラプロジェクトに取り組むことになったきっかけはもうひとつあります。それは当時のサントリー社長、佐治敬三氏のウィスキー作りでお世話になったスコットランドに恩返ししたいという熱い思いです。偶然にもイギリスの国花はバラ、スコットランドのシンボルカラーはブルーだったのです。

 

第二章 1991年 青色遺伝子の取得に成功!


青の色素を持たないバラから青いバラを咲かせるためには、青い花を咲かせる植物の中に含まれる数万種類の遺伝子の中から青色遺伝子を取り出し、バラの細胞に入れて遺伝子を組み換えた青いバラを作る方法を開発することです。

サントリーの開発陣は、青色遺伝子を取り出すことに関し、まず当時花色研究のモデル植物だったベチュニアに着目しました。そしてベチュニアが持つ青色遺伝子の候補を3万種の遺伝子の中から300種類ほどまで絞り込み、ひとつひとつ調べて行ったのです。

そしてついに1991年6月13日に青色遺伝子の取得に成功!すぐにこの遺伝子の特許を出願したのです。青色遺伝子を発見した時の感動をサントリーの田中良和上席研究員はこう語っています。

※「この時の感動はとても言葉では言い表せません。青色遺伝子の発見は、私の研究人生最大の喜びでした。」

 

第三章 1994年 失敗の連続・・・「青いバラが咲かない」


取り出しに成功した青色遺伝子を入れたバラが開花するまでに1年かかります。しかも導入した青色遺伝子がどの程度影響するかはバラ1本ごとに違うので、なるべくたくさんの遺伝子組み換えバラを咲かせる必要があったのです。

そして開発チームは試験管内の植物を相手に気の遠くなるよう作業と試行錯誤を繰り返しました。その当時の様子を1991年に青いバラの研究に憧れて入社したサントリーの主幹研究員 勝本幸久氏はこう話しています。

※「失敗の連続でしたが、メンバーは思うような結果が出なくても、あきらめずに絶対できると信じて研究していました」

そして1994年に初めて青色遺伝子を入れたバラの開花に成功!しかし、その花は赤いバラのままだったのです。そこで今度はベチュニア以外の花から青色遺伝子を取り出し何度も実験を重ねましたが、結局青いバラは咲かなかったのです。

 

第四章 1995年 青色カーネーション「ムーンダスト」の誕生


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思ったような結果が出せず、つらい研究が続く研究陣を勇気付けたのが、青いカーネーションの成功でした。バラでうまくいかなった青色遺伝子をカーネーションに使ったところ赤いカーネーションが見事に青色に変化したのです。

「ムーンダスト」と名前がついた青いカーネーションは1997年から日本で発売されましたが、遺伝子組み換えによる花の商用化は世界初。その気品のある美しさから「永遠の幸福」という花言葉がつけられました。現在ではコロンビアとエクアドルで生産され、アメリカやヨーロッパを中心に販売されています。

 

第五章 1996年 見えた!青いバラ誕生への道筋


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それは、まさに偶然の産物。ベチュニアの青色遺伝子で失敗した後、研究陣はリンドウやラベンダーなど色々な花の遺伝子を試していました。その中で偶然にも赤いバラの花の色に変化をもたらしたのが、パンジーだったのです。

この時点での青色色素の含有率は50%程度で青いバラとはかけ離れた濁ったような赤黒い花でしたが、その知らせを受けた現場は活気づいたそうです。まさに青いバラ誕生への道筋が見えた出来事でした。

この時の興奮を田中良和上席研究員はこう表現しています。

※「どんなにわずかでも、ゼロと1では全くちがう。これでいいんだ、方向性は間違っていなかったという確信がもてました」

 

第六章 2002年 青いバラの誕生!


青いバラを育てる手法は、葉になるのか茎になるのかも決まっていない細胞の塊(カルス)を培養し、その中にパンジーから取り出した青色遺伝子を入れてそれを育て、花を咲かせるわけですが、その実験のもとになるカルスを作るだけでも1年かかります。そんな非常に時間のかかる実験ですが、1998年から1999年頃には青い色が認識できるバラが咲き始めました。

そして研究陣の努力の甲斐あって青色色素が100%に近いバラを咲かせることに成功したのです。さらにその中から品種を絞り込み、2002年ついに世界初の青いバラが誕生したのです。

 

第七章 2004年 青いバラ成功の広報発表とその後のエピソード


2004年6月東京六本木ヒルズで行われた広報発表はハプニングの連続でした。まずは青いバラの完成発表なのに文部科学省の認可前ということで、実験室の外に持ち出すのはおろか会場に飾ることさえできなかったことです。

結局、展示は青いバラを密閉容器に入れ、会場を臨時の実験室に見立てるということで対応しましたが、今度は豪雨で新幹線が不通になり主役の青いバラが届かないという大ハプニング。結局飛行機に乗り換えてぎりぎり間に合ったそうです。

そんなごたごたの末に行われた青いバラ開発成功の広報発表は大反響を呼び、翌日の新聞各紙は一面トップで報じ、海外のメディアも青いバラ成功のニュースを大きく取り上げました。ところが、開発陣にはこの後も大きな法律の壁が立ちはだかっていました。

それは、遺伝子組み換えによってできた青いバラを外に出すためには、国内で生産、販売しても他の生態に影響しないことを証明する必要があったからです。

それに対応するため、サントリーの開発陣は青いバラの花粉を野生のバラに受粉させて交雑試験を行い、受粉したバラに影響が広がる心配がないということを証明し文部科学省の認可を勝ち取ることに成功しますが、それは広報発表をした5年後の2009年のことでありました。

 

いかがでしたでしょうか。

青いバラを作るのにこんなにたくさんのエピソードがあって、20年もの時を要したなんてすごいと思いませんか。この後、青いバラ開発のサクセスストーリーは学校の理科の教科書に取り上げられるほど有名になりましたが、このお話は理科を勉強する子供達に何を伝えようとしているのでしょうか。

もちろん理科の教科としては、青いバラを通して植物や生物の不思議に関心を持ってもらうことなのでしょうが、この話から学ぶべきことは、無理と思うことでも目標に向かって努力すれば達成できるということです。

世界初の青いバラの名前は「SUNTORY blue rose Applause」 アプローズは「喝采」そして青いバラの花言葉は「夢かなう」です。世界初の青いバラには夢をかなえるために努力してきた開発陣をはじめとする多くの人たちの熱い思いが込められているのです。

※開発陣の声はサントリーグローバルイノベーションセンター「青いバラへの挑戦」より抜粋引用しました。
http://www.suntory.co.jp/sic/research/s_bluerose/story/

 

まとめ

青いバラが実現するまでの話をさまざまなエピソードを交えながらご紹介しましょう

・第一章 1990年〜 青いバラプロジェクトが始まったきっかけ
〜サントリー社長、佐治敬三氏の熱い思い〜

・第二章 1991年 青色遺伝子の取得に成功!
〜青色遺伝子を特許出願、開発に弾みがつく〜

・第三章 1994年 失敗の連続・・・「青いバラが咲かない」
〜気の遠くなるよう作業と試行錯誤の繰り返し〜

・第四章 1995年 青色カーネーション「ムーンダスト」の誕生
〜取り出した青色遺伝子で赤いカーネーションが青色に変化〜

・第五章 1996年 見えた!青いバラ誕生への道筋
〜パンジーの青色色素がもたらした奇跡〜

・第六章 2002年 青いバラの誕生!
〜青いバラを誕生させた研究陣の努力と忍耐力〜

・第七章 2004年 青いバラ成功の広報発表とその後のエピソード
〜内外に大反響!その後、最後の壁が立ちはだかる〜